
「あれ、何を取りに来たんだっけ?」
別の部屋に移動した瞬間、何をしようとしていたのか思い出せなくなった経験はありませんか。
例えば、スマートフォンを取りに寝室へ向かったのに、部屋に入った途端に目的を忘れてしまう。そんな何気ない現象には、実は脳の記憶の仕組みが関係していると考えられています。
この現象は「ドアウェイ効果(Doorway Effect)」と呼ばれ、心理学や認知科学の分野で研究されてきました。
2026年1月26日には、国際学術誌『Memory & Cognition』に、仮想現実(VR)を使ってドアウェイ効果を検証した最新研究が発表されています。
今回は、なぜ場所を移動すると物事を忘れやすくなるのか、そして脳はどのように記憶を整理しているのかについて、最新の研究結果をもとに解説します。
ドアウェイ効果とは?部屋を移動すると忘れる現象
ドアウェイ効果とは、ドアを通って別の空間に移動すると、それまで覚えていた情報を思い出しにくくなる現象のことです。
この現象は「場所の更新効果(Location Updating Effect)」とも呼ばれています。
例えば、キッチンで何かを思いつき、リビングに移動した途端に忘れてしまう。あるいは、仕事中に別の部屋へ移動すると、直前まで考えていたことを思い出せなくなるといった経験が挙げられます。
こうした現象は、単純に記憶力が低下しているから起こるとは限りません。
私たちの脳は、周囲の環境や状況が変化すると、それに合わせて情報の整理や更新を行っていると考えられています。
ドアを通るという何気ない行動が、脳にとっては「場面が切り替わった」という合図になる可能性があるのです。
なぜ忘れる?脳が出来事を区切って記憶する仕組み
私たちは、日常生活で起こる出来事を、すべてひと続きの情報として記憶しているわけではありません。
例えば、朝食を食べる、通勤する、仕事をする、帰宅するといった一連の経験は、それぞれ異なる出来事として整理されています。
このように、連続した経験を意味のある単位に分ける仕組みは「イベント分節化(Event Segmentation)」と呼ばれています。
脳は、場所や時間、行動の目的などが変わることを手がかりに、ひとつの出来事の終わりと、新しい出来事の始まりを判断していると考えられています。
その代表的な手がかりが、ドアなどの空間的な境界です。
例えば、リビングからキッチンへ移動すると、周囲の景色や目に入る物、そこで行う行動などが変化します。
こうした環境の変化に合わせて、脳は現在の状況を表す情報を更新すると考えられています。
その結果、移動する前に意識していた情報が、新しい場面では思い出しにくくなる場合があります。
重要なのは、情報が完全に消えてしまうのではなく、場面の切り替わりによって、それまでの情報にアクセスしにくくなる可能性があるということです。
この仕組みは、膨大な日常の経験を整理し、異なる出来事を区別するためにも役立っていると考えられています。
2026年の最新研究でわかったドアウェイ効果
2026年1月26日、ニュージーランドのオタゴ大学の研究チームが、ドアウェイ効果に関する新たな研究を『Memory & Cognition』に発表しました。
研究では、90人の参加者がVR空間に用意された5つの部屋を移動しながら、10個の物体を記憶する実験が行われました。
参加者には、物体を見た順番や、どの部屋に置かれていたかを覚えてもらい、移動後の記憶を分析しました。
その結果、途中で別の課題を与えられなかったグループでは、同じ部屋にあった物体同士の順番を、異なる部屋にまたがる物体の順番よりも正確に思い出せることが確認されました。
同じ部屋にあった物体の順番を思い出す正答率は、異なる部屋にまたがる場合より平均8.2ポイント高い結果でした。
これは、ドアという空間的な境界が、出来事を記憶する際の区切りとして働く可能性を示しています。
さらに興味深いのは、途中で別の課題を与えられた場合の結果です。
研究では、視覚的な位置や順番を覚える課題を、部屋の中央で行った場合に、物体の順番や場所に関する記憶が低下しました。
一方、同じ課題をドアの位置で行った場合には、同様の明確な低下は確認されませんでした。
研究チームは、部屋の途中で注意を必要とする課題が入ることで、ひとつの出来事として保持していた情報が妨げられた可能性を指摘しています。
つまり、記憶には場所の切り替わりだけでなく、どのタイミングで注意が別のことに向けられるかも関係している可能性があるのです。
ただし、この研究で直接調べたのは、VR空間で物体の順番や場所を覚える能力です。日常生活で目的を忘れる現象を、そのまま再現したものではありません。
ドアを通ると必ず忘れる?記憶への負担との関係
ドアウェイ効果は、どのような状況でも必ず起こるわけではありません。
2021年に『BMC Psychology』で発表された研究では、VRや実際の空間を使い、4つの実験でドアウェイ効果が検証されました。
その結果、ドアを通っただけでは、記憶に明確な悪影響が認められない条件が多くみられました。
一方、数字を逆から数えるなど、同時に別の情報を処理しなければならない状況では、ドアを通った後に記憶の判断を誤りやすくなる結果が確認されました。
これは、脳が複数の情報を同時に扱っている状況では、場所の切り替わりによる影響を受けやすくなる可能性を示しています。
私たちは日常生活でも、仕事の予定を考えたり、スマートフォンを確認したり、会話をしたりしながら移動することがあります。
そのような状況では、ひとつの目的を覚えておくために使える注意や記憶の働きが、ほかの情報処理によって妨げられる可能性があります。
ただし、これらの研究から、忙しい人ほど必ずドアウェイ効果が強くなると断定できるわけではありません。
また、ドアウェイ効果が生じること自体が、認知症などの病気を意味するものでもありません。
日常生活で物忘れを減らすためにできること
今回の研究からは、私たちの記憶が、周囲の環境や注意の向け方と深く関わっていることがわかります。
では、日常生活で目的を忘れにくくするには、どのような工夫が考えられるのでしょうか。
ひとつは、移動する前に、これから何をするのかを意識することです。
例えば、別の部屋へ物を取りに行く際に、目的を頭の中で短い言葉にして確認すると、覚えておきたい情報に注意を向けやすくなります。
また、複数の作業を同時に進めている場合には、重要な予定や用事をメモに残すことも実用的です。
これらはドアウェイ効果を直接防ぐと証明された方法ではありませんが、記憶だけに頼らず、日常のうっかり忘れを減らすための工夫になります。
さらに、睡眠不足や強い疲労は注意力や記憶の働きに影響することがあるため、十分な休息を確保することも大切です。
ただし、物忘れが頻繁に起こるようになったり、日常生活に支障が出たりしている場合には、単なるドアウェイ効果と決めつけず、医療機関へ相談することが重要です。
今回の研究で興味深いのは、私たちが何気なく行っている「部屋を移動する」という行動にも、脳の記憶を整理する仕組みが関わっている可能性が示されたことです。
忘れることは、必ずしも脳の機能が衰えていることを意味するわけではありません。
日常の小さな物忘れの背景には、複雑な情報を整理しながら働き続ける、脳の興味深い仕組みが隠されているのかもしれません。


