
「どうすれば、よく眠れるのか?」
睡眠について考えるとき、多くの方がまず思い浮かべる疑問ではないでしょうか。
ところが睡眠の仕組みを理解するうえでは、
「どうやって眠るか」だけでなく、「なぜ私たちは起き続けることができるのか」
を知ることも非常に重要です。
2026年9月9日、その仕組みの解明に大きく貢献した日本の睡眠研究が世界的に高く評価されました。
筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)の柳沢正史教授が、スタンフォード大学のエマニュエル・ミニョー教授とともに、2026年アルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞しました。
ラスカー賞は医学・生命科学分野における世界最高峰の賞のひとつで、筑波大学によると、柳沢教授は日本人として8人目のラスカー賞受賞者となります。
世界が評価した「オレキシン」とは?
今回の受賞で大きく評価されたのが、「オレキシン」という脳内物質の発見と、その後の睡眠・覚醒に関する研究です。
柳沢教授らは1998年、脳の視床下部でつくられる神経ペプチド「オレキシン」と、それを受け取る2種類の受容体を報告しました。
発見当初は食欲などとの関係が注目されていました。
ところが、その後の研究から予想外の重要な役割が見えてきます。
オレキシンの働きを失わせたマウスが、突然眠り込むなど、ナルコレプシーに似た症状を示したのです。
では、「ナルコレプシー」とはどのような病気なのでしょうか。
ナルコレプシーは、日中の耐えがたい眠気やレム睡眠の異常、情動性脱力発作などがみられる過眠症の一つです。
突然強い眠気に襲われるほか、笑ったり驚いたりしたときに身体の力が抜ける「情動性脱力発作(カタプレキシー)」がみられることもあります。
単なる「寝不足による眠気」とは異なり、睡眠と覚醒を安定して切り替える仕組みそのものに関係する病気です。
そして研究を進める中で、ナルコレプシーとオレキシンの深い関係が明らかになっていきました。
つまり、オレキシンは単に食欲に関係する物質ではなく、私たちが「起きている状態」を安定して維持するために重要な物質だったのです。
睡眠研究なのに「起きている仕組み」が重要?
ここが今回の研究の面白いところです。
睡眠というと、
「どうすれば眠くなるのか?」
「どうすれば深く眠れるのか?」
という方向から考えがちです。
しかし、私たちの脳は単純に、
起きている → 疲れる → 眠る
という仕組みだけで動いているわけではありません。
脳の中には睡眠と覚醒を調節する複数のシステムがあり、オレキシンはその中で、覚醒状態を安定して維持する重要な役割を担っています。
たとえるなら、「起きている状態」を支える柱のひとつ。
この仕組みがうまく働かなくなると、覚醒を安定して維持することが難しくなります。
つまり睡眠を理解するためには、
「どうやって眠るのか」と同時に、「どうやって起き続けているのか」を理解する必要があったのです。
別々に進んでいた研究が「オレキシン」でつながった
今回、柳沢教授とともに受賞したエマニュエル・ミニョー教授は、別の方向から睡眠研究を進めていました。
柳沢教授らがオレキシンそのものを発見し、その働きを研究していた一方、ミニョー教授らはナルコレプシーを発症する犬について研究していました。
そして1999年、犬のナルコレプシーにオレキシン受容体2の遺伝子異常が関係していることが明らかになります。
まったく別々に進んでいた研究が、同じ「オレキシン系」にたどり着いたのです。
その後、人間のナルコレプシーでも、脳脊髄液中のオレキシン濃度が著しく低下していることなどが明らかになり、オレキシンと覚醒維持との関係がさらに強く裏付けられていきました。
発見から「新しい睡眠薬」へ
そして、この研究のすごさは、
「睡眠の仕組みが分かりました」
で終わらなかったことです。
オレキシンが「覚醒を維持する」のであれば、その働きを抑えることで睡眠へ移行しやすくできるのではないか。
この考え方から生まれたのが、オレキシン受容体拮抗薬です。
現在では、不眠症の治療薬として実際に使用されています。
つまり発想としては、
無理に「眠らせる」のではなく、「起き続けようとする仕組み」を弱める。
オレキシンの発見によって、睡眠薬の新しいアプローチが生まれたのです。
ラスカー財団も、オレキシン研究から新しいタイプの不眠症治療薬が生まれたことを、今回の受賞につながる重要な成果として紹介しています。
反対に「起きていられない」人への治療も
さらに、オレキシン研究はその反対方向にも進んでいます。
不眠症では、覚醒を維持するオレキシンの働きを「抑える」ことで眠りやすくする薬が実用化されています。
では逆に、オレキシンが不足して覚醒を維持することが難しくなるナルコレプシーではどうでしょうか。
そこで考えられたのが、
「オレキシンの働きを補うことで、起きている状態を安定させられないか?」
というアプローチです。
実際に現在、オレキシンの受容体を直接刺激する「オレキシン受容体作動薬」の開発が進められています。
その代表例が、武田薬品工業が開発しているオベポレクストン(oveporexton/TAK-861)です。
オベポレクストンは、オレキシンが作用する受容体のうちオレキシン2受容体(OX2R)を選択的に刺激する薬です。
ナルコレプシー1型では、オレキシンをつくる神経細胞が失われ、脳内のオレキシンが著しく不足しています。
そこで、失われたオレキシンそのものを補充するのではなく、残っているオレキシン2受容体を薬で直接刺激するという発想です。
2026年7月には、オベポレクストンの新薬承認申請が米国FDAに受理されました。
筑波大学の2026年9月9日の発表によると、FDAによる審査結果は2027年第1四半期に出る予定とされています。
ここまで来ると、1998年のオレキシン発見がどれほど大きなものだったのかが見えてきます。
不眠症では、
オレキシンの働きを抑える
→ 覚醒を弱め、眠りやすくする
一方、ナルコレプシーでは、
オレキシン受容体を刺激する
→ 覚醒を安定させる
という、正反対のアプローチが可能になってきたのです。
1998年に「オレキシン」という脳内物質が発見されてから約28年。
当初は基礎研究だった発見が、不眠症の治療薬としてすでに実用化され、さらにナルコレプシーそのものの仕組みに働きかける新薬開発へとつながっている。
この「基礎研究から治療への発展」も、今回のラスカー賞を理解するうえで非常に重要なポイントです。
1998年の発見から約30年
オレキシンが発見されたのは1998年。
それから約30年。
オレキシンの発見
↓
ナルコレプシーとの関係
↓
睡眠・覚醒の仕組みの解明
↓
不眠症治療薬への応用
↓
ナルコレプシーの新薬開発へ
と、基礎研究から実際の医療へと発展してきました。
今回のラスカー賞は、その長年にわたる研究が世界的に評価されたものです。
ラスカー財団による授賞式は、2026年9月17日にニューヨークで開催予定となっています。
「眠る」という当たり前のことには、まだ分からないことがある
私たちは毎日、当たり前のように眠り、そして目を覚まします。
しかし、
「なぜ眠るのか?」
「なぜ目を覚ましていられるのか?」
「脳はどうやって睡眠と覚醒を切り替えているのか?」
そのすべてが完全に解明されているわけではありません。
今回のラスカー賞受賞は、睡眠が単なる「身体を休ませる時間」ではなく、世界中の研究者が解明を続けている重要な生命現象であることを改めて感じさせるニュースです。
La HEADでもこれまで、睡眠時間だけでなく、光、体温、食事、運動、呼吸など、睡眠に関するさまざまな研究をご紹介してきました。
そして今回のテーマは、さらにその奥にある「脳そのものが睡眠と覚醒をどうコントロールしているのか」という話です。
身近な「眠る」という行動の裏側には、驚くほど奥深い科学があります。
La HEADではこれからも、睡眠や休息について考えるきっかけになる新しい研究やニュースを、できるだけわかりやすくお届けしていきます。
参考資料
・Albert and Mary Lasker Foundation「Orexin: A brain peptide that maintains wakefulness」
・筑波大学「柳沢正史教授が2026年アルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞」


